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2011.07.03 Sun

初めてボランティアしてきて思ったこと


今日の午後、宮城から無事帰ってきた。

今回は宮城県の中でも石巻、奥松島、東松島へいってきました。

もうすでに何度もボランティアに足を運んでいる、

アーティストトーチカのふたりのおかげで現地へ向かうことが出来ました。

忘れないうちに記すことがわたしができることのひとつだと思うので

こうして自分の言葉で書かせてもらいます。

まず、ボランティアから帰ってきて、行く前と変化があったのは

私自身の心が元気になったということ。

誰かのために、何かしたい。

そういった気持ちはもちろんありましたが、何よりわたしが元気になっていた。


今回は倒壊した家屋への石灰まき(除菌になるそうです)

そして、ヘドロ掃除、花を植えるための草むしり

物資配給の手伝い をしてきたのだけれど

炎天下の中の作業は肉体的に相当疲れてしまったけれど、心は晴れやかでした。 

ボランティアには損も得もないから、

その時間、人はまっさらな状態になることができる。

ボランティアにきた各地から集まった人に

津波の影響で家を失い、現在避難所で暮らす住民のおじさん、おばさんに

沢山優しくしてもらって、そして喜んでもらえたことが素直に何よりもありがたかった。

被災地では、わたしの職業や経歴、年齢なんてものは関係ない。

今の環境や立場を忘れ、ひさしぶりにひとりの人間に戻れました。

普段すれ違っているであろう、自分と接点のない職業の人も

年齢がふたまわりも離れている年配の人も みーーーーーーーーーんな

当たり前のように会話が成り立つのだから、おもしろい。

支えたいと思ってきているのだから、優しい人がきっと多いのでしょう。

心洗われました。

現地での経験は、ひとりで初めて訪れる場所を旅した時の感覚と似ていて

写真で見ても伝わらない。

自分の目で、肌で感じないと状況はいつまでたっても分からないということ。

五感で感じることが、何にも変えがたい経験。

もし時間に余裕があるならば、まずはいくだけでもいいと思うので

是非、現地の様子を見にいってみてください。


わたしがお世話になった、東松島ボランティアセンターはこちら

わたしにとっては初めてカンボジアを旅した時のことを思い出しました。

もう8年も前になるけれど、国境付近は埃まみれで、異様な臭いがたちこめていた。

ストリートで暮らす、やせ細った大量の物乞いの子供たちを前に胸が締め付けられました。

宿に帰って、何も出来なかった自分を責めたくさん泣いたことを覚えています。

今回最初に訪れた石巻。

港付近は、鼻が曲がるほどの腐った魚の臭い、大量のハエ、ガレキの山。

そして車で20分程度走ると、

真っ黒に焼けて沢山の死者が出た小学校、崩れ落ちた家

ここに町があったことなんて、誰も想像できないような光景が

自衛隊やボランティア、支援が入ったとはいえ、各所で見られます。

*写真は震災直後


『がんばろう!石巻』 『かならず復興するぞ!』 

大きく描かれた看板の言葉と、目の前に広がる辛すぎる現状に鳥肌がたち涙が出ました。


なんとかして復興してほしいと思う。

わたしの地元では見ることの出来ない、豊かな自然に恵まれている東北地方。

人も温かく、親切な方ばかりでした。


2日目は奥松島の漁村へ。

奥松島で出会った、被災者の漁師のおじさんは(50代~70代)

私たちにこんなことを伝えてくれた。
 
『阪神大震災が起こったとき、わたしはなんの支援もできなかった。

関心がきっとなかったんだと思う。だけど、こうして自分が被災者になったときに

全国各地から本当に色んな人が時間とお金を使って支援にきてくれる。

今はあの時のことを後悔しているよ。本当に感謝しています。

だから、こうして来てくれるだけでも本当にうれしい』


おじさんは海が目の前に広がる場所に4年前新築で家を建てたばかりだった。

全壊した家を眺めながら、この話をしてくれました。

そんな状況の中、笑いかけてくれるおじさんをたくましく思いました。


『必ず復興するから、その時はきっとわたしたちの町へゲストとして帰ってきてください。』

復興には絶対に何年もかかる。10年単位かもしれない。

人は良くも悪くも、自分の置かれた環境に慣れる生き物。

悲しかったことも、嬉しかったことも 過去の記憶になってしまいます。

平穏な時間が流れていた日本で、こんなことが起こるなんて

だからこそ、忘れたくないし 

わたしは日本が大好きだから、なんとかして継続的にサポートしていきたいです。

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